一人暮らししたいマンが一人暮らしするまでの読書ノート――その0(入山 頌)
1.一人暮らしがしたい
実家を出たい。っていうか、実家って言い方なんだよ……。好きだろうが嫌いだろうが、愛せようが愛せまいが、実家は実家だ。こんな理不尽な話ある? パパンとママンがラブラブだろうがそうじゃなかろうが、子どもはそういう愛情によって調節された不気味なエネルギーの渦中にいる。実家って言い方、むちゃくちゃ権威的だし好きじゃない。親が住んでいる家だろ。それでいいじゃん。ぼくにはぼくの家があっていいはずだし、あるべきなんだ。
このあとまただらだら書くけど、その事実はたとえ両親がラブラブだろうがそうじゃなかろうが関係ない。家、あるいは家族はいわば愛情を調節することによって成員を支配している。それが問題なんだ。愛に満たされた家庭に育って、自分が親になったらパパンとママンみたいにラブラブな家庭をつくりたいと思うことと、愛のない家庭に育って家族というものに嫌悪感を抱くことに実はそんなに大きな違いはない。どっちも、家、あるいは家族の愛情に支配されているのだから。
2.一人暮らししたいマンについて
ぼくは働いていないわけじゃないんだけど、収入のわりに住居に対する要求が高かった。風呂トイレは別が良いとか、築年数は10年以内とか……。あとは、一人暮らしのために貯金したりすることよりも、お酒飲みたかったりタバコ吸いたかったり服が欲しかったりして全然前向きになれなかった。だけど最近、実家で暮らすことに対するストレスがピークに達して、やっぱだめだ、と思ってお金の使い方とか見直したらなんかイケる気がしてきたのだ。根拠はあんまりないけど。
気持ちが先走って盛り上がってしまっている感が否めない。最近ハマッている漫画『炎炎ノ消防隊』の主人公、森羅日下部くん風に言うと「一人暮らししたいマン」って感じだ。
いろいろ試しながらだけど、春になるころに家を出られたらいいなあって思っている。お金のやりくりとか頑張って、なんかいい感じに家を出られたらいいなあ。
とにかく、なにか宣言しておいた方がやる気になるんじゃないかと思ったのだ。それで、ただコツコツお金溜めて計画立てるのも性に合わないので、なんか楽しくなるようなことも一緒にやってみたいと思ったのだった。
3.この読書ノートについて
そこで、部屋の本棚にあるもののなかから、一人暮らしに結び付けて読めそうな本を読むことにした。感想文とか書いたら、積読も消化できるし、知識もつくし、自己満足につながるし一石三鳥でいいと思ったのだ。
【読書ノートの予定】
①トゥアン、イーフー,2018,『個人空間の誕生』,阿部一訳,筑摩書房。
②トミヤマユキコ・清田隆之,2017,『大学1年生の歩き方』,左右社。
③坂口恭介,2012,『独立国家のつくりかた』,講談社。
④金田一連十郎,2003~2009,『ジャングルはいつもハレのちグゥ①~⑩』,スクウェア・エニックス。
⑤柏木博,2015,『家事の政治学』,岩波書店。
⑥杉田俊介,2005,『フリーターにとって自由とは何か』,人文書院。
途中息抜きに漫画が読みたくなってハレグゥを入れてるけど、一人暮らしに結び付けて読めるかはわからない。物語の途中、主人公一家がジャングルを離れて街に引っ越すんだけど、その辺の印象があったからかなあ。11月から初めて、1か月に1冊ペースで半年くらいで考えてる。半年色々やってみて、結局一人暮らしできてなかったら笑い話だけど、ブログは残るから。
4.読書で実家をぶち壊せ――ぼくの一人暮らし論に向けて
それにしても、こんちきしょう。実家ってなんなんだよ。家は家だよ。実も殻もないよ。だからまぁ、要するに実家って言葉には、家っていうか家族って意味があるんだろうね。
家族が嫌っていうより、家族って素晴らしいですよねっていうのが嫌。素晴らしくない人はどうすればいいんだよ。テレビドラマみて、映画みて泣けば良いワケ? そんでまぁ、そういう、カチカチカチカチ愛情を調節しながら子どもやパートナーを平気で支配できる家族ってやつがほんとにムリ。この、愛情を調節しながら人を支配する家族というものを批判しているのが、社会学者の岡原正幸さんだ。岡原さんはそういうのを、規範化された愛情って呼んでる。
「愛するから当然……する」「……するのは愛しているからだ」という具合に言説化し、人々は行為や状況を「愛情化」するのである。昨今、恋愛と結婚は別だという主張が聞かれるが、結婚には愛情がいらないということではない。恋愛も結婚も「愛情」が、質的に異なるとはいえ、ともに必要だとされる点では一致して近代的であるといえよう。(…)だが想像してみよう。「別に愛していないけど、あなたと結婚する」「愛してないけど、子供を育てている」などといったら、どうなるかを。こぞって糾弾され、白い目を向けられ、「それでも人間なのか」と詰問されるだろう。(…)
ということは、私達は、愛ぬきで自然に家族を運営できるわけではないのだ。愛情を感じつつ、それゆえ自然で自由だと意識しつつ、家族を作り営むことを社会的に要請されているのである。この点が大事だ。つまり、ある社会状況では、愛情を経験することが社会的に要請され、愛情を経験しないことは逸脱として制裁を受けるのである。このことをここでは愛情の規範化と呼ぼう[岡原 2012:136-137]。
岡原正幸,2012,「制度化された愛情――脱家族とは」,『生の技法[第3版]――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,pp.119-157,生活書院。
好きだろうが嫌いだろうが、そういうことになってるんで家族内では愛し合う感じで、イイ感じでお願いしますっていうのが、規範化された愛情だ。書いててムカついてきた……。
この規範を乗り越えたくて、一人暮らしがしたいんだなあ。
もちろん、こんなのは制度だから、それに振り回されてる親も子も悪くない。制度を憎んで親子を憎まずである。大切なのは、制度によって決めつけられた範囲の外側に出るための穴を見つけて、さっさと出ちゃうこと。自分の誕生には愛のあるセックスがあったに違いない、という夢からさめること(ほんとにあったかもしれないけど、でもそれは子どもにはわかりえないことでしょう。自分が生まれる前のことなんだから。みたわけじゃあるまいし。じゃあ、生まれてきた子どもにもわかるように愛情証明書を発行して……って、それ制度じゃん。両親の仲が悪くなっても、愛情証明書に愛情を証明されちゃうんだ)。そしてなにより、その愛情が決して生々しいものではなく、制度によって生み出されたものであることに気がついたなら、それを人に押し付けようなんて絶対に思わないこと。
で、この制度から出るための穴なんだけど、開けるなり探すなりしなきゃいけない。でも、どうすればいいんだろう。そりゃ、一人暮らしにはお金がかかる。家賃とか光熱費とかあるけど、買い物も我慢したくない。そうじゃなくて、もっと手前の話。大好きな実家、大嫌いな実家、そこにうごめいている愛情というエネルギーがどうやら不気味なマシーンによって生み出されたものであるらしいことに気が付くきっかけはどこにあるのか。自分一人で色々できる人はそりゃいいかもしれない。でもぼくなんて、酒とたばこさえあれば後はどうでもよかったから、積立とか目標とか計画とか頭になかった。
出れるもんならさっさと出たいわっ! って気持ちを大事に大事にくすぶらせていれば、そのうちなんとかなるもんだ。だからとにかく、家族にむかつこう、むかついていよう。話はそれからだ。そんなわけで、読書感想文を載せていきます。
■参照文献
岡原正幸,2012,「制度化された愛情――脱家族とは」,『生の技法[第3版]――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,pp.119-157,生活書院。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません