ユートピアの対立、あるいは暮らしの省察(入山 頌)

 一緒にコーヒーを入れるだけなのに、喧嘩をしていたことを思い出す。それはそれはつらかったが、コーヒーを淹れるぐらいのことで喧嘩が成り立つのは不思議なことだ。コンビニや自販機でお金を払い、紙コップに注がれるコーヒーを眺めながらそんなことを思う。

 なんでこんなにうまくいかないんだろう、と思うことは、悪いことじゃない。泣くくらいつらくても、それはなにかを教えてくれている。小さな喫茶店で、ほんの数時間、ニコニコ一緒に時間を過ごすことだけが共生ではない。

 そもそも、みんなが仲良く、気分良く過ごさなければならない、というのは、わたしたちの暮らしに働くとても強い力だ。しかし、なんのために。

 かつて、「一緒に何かをつくる」ということを真剣に考えたウィリアム・モリスは、『ユートピアだより』という小説の中で、登場人物に次のように語らせている。

「ある家族や種族、それもしばしばお互いに性質を異にし摩擦を起こしがちなものを、むりやりにある人為的で機械的な集団にまとめ上げて、それを国民と称して、彼らの愛国主義――つまり、そのおろかしい嫉妬深い偏見を鼓舞する、いったい、そんなことがどうして多様性を増したり、単調さを追い払うことになるのですか」[モリス 1968:161-162]

モリス、ウィリアム 1968 『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波文庫。

 こんにちいわれている多様性は、より大きな言葉によって、うまくバランスの取れた集団として語られているように思えてならない。それは「語られている」だけで、実際は違う。多様性のしんどさを、大きな言葉では表現できないということ、というか、多様性という言葉を前に、わたしたちがわたしたちの言葉を持つということが、大切だろう。

 モリスは、一緒に何かをする以上、喧嘩をするに決まっているし、そしてそれは解決可能な対立だ、ということを言っているのではないのか。

「われわれの場合は、意見の相違は実務的な事柄にかかわったことなので、人の間に永久にへだてを作ったりはできないでしょう。(…)たとえば、どこそこの田舎で乾草作りは今週始めるべきか、といったような問題で、おそくとも来々週にはぜひ始めなければならぬとみなの意見は一致していて、まただれだって自身で野原に出かけていって、もう刈り込んでも十分なほど種が熟しているかどうか見とどけることができるような場合、こういうことで政党を急にでっち上げるなどというのは、あきらかに容易なことではありません」[モリス 1968:164]

モリス、ウィリアム 1968 『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波文庫。

 コーヒーを淹れるくらい、簡単だと思うだろうか。わたしにとっては、この難しさが多様性だ。

参照文献

 モリス、ウィリアム 1968 『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波文庫。