なんにもなかったね
あの人、結局なんにもないんだよ。
からっぽなんだよね。
一生懸命子育てしたって言ったって、「一通り」やられただけ。
感謝はしてるけど。
母と電話をした。1時間くらい。
少しずつだが、家庭が壊れてきている。ようやく。
あと何年かかるかはわからないが、実家はそのうちからっぽになると思う。
無理やりかみ合わせてきた歯車がぽろぽろと堕ちて、やっと、ばらばらになろうとしている。
イデオロギーでは瓦解を引き止められない。
本来そういうものなんだ。
本当にお疲れさま。未来は自分のために使おう。
母に、わたしに、そう言いたい。
結局何にもない
一通り
からっぽのもの
家族なるもの、家庭なるもの
イデオロギーによって装填され続けている実態のない妄想。
実態のないことを、誰にも信じてもらえない悔しさ、悲しさ。
少し長いけれど、ハキム・ベイの言葉をここに引いておきたい。
家族の娯楽を気取った景色は、すべてのじめじめした夏の草地を「テーマ・パーク」へと変じ、それぞれの息子を「父親」の富の無意識のアレゴリーへと、リアリティから二度も三度も消去された果ての活気のない表象=再現前へと変えてしまう。つまり、「どうでも良いもの」のメタファーとしての「子ども」なのだ。
(…)
「家庭よ! 愛の守銭奴よ! どんなにそれを憎むことか!」野球のボールが、宵の光の中をふらふらと飛び交い、捕球され損なうと、疲れた不機嫌さをにじませた声が上がる。子どもたちは、日暮れが今までの数時間のけちくさく与えられた自由を覆い隠そうとするのを感じるが、しかし未だ「父親たち」は、夕食の時間まで、夕闇が芝生を見えなくするまで、その家父長的犠牲の気乗りしない最終楽章を引き延ばすことにご執心である。[ベイ 1997:98-99]
ベイ、ハキム 1997 『T・A・Z――一時的自律ゾーン』箕輪裕訳、インパクト出版会。
やれやれである。
▶参照文献
ベイ、ハキム 1997 『T・A・Z――一時的自律ゾーン』箕輪裕訳、インパクト出版会。
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