【赤松啓介を読む②】「私もその一人であった」(入山 頌)
1.昨日のイチケイのカラスみた?
昨日のイチケイのカラスみた? 竹野内豊チョーかっこいいよね。ひょうひょうとしながら、法の場にできるだけ多くの判断材料を示そうとする裁判官。わたしたちって、悪に過敏なくせに自分たちのなかにある悪意にはあまりにも無関心だと思わない? 悪いやつをみつけたら叩きのめそうとするじゃない。「ダメだよ」とか「よくないよ」とか、あたまごなしに否定してかかるのが正義だと思いがちじゃない? ハァーッ、今日もいいことしちゃいました、じゃない?
そういう、ちょっとムカッとくる正義が渦巻く裁判の現場に、考えたり立ち止まったりする時間をくれる竹野内豊。っくぅ~。
今回は、「若者に石を投げられた路上生活者がその若者に反撃して重傷を負わせてしまった」という話でした(2021/6/7放送)。ほんとかな。ほんとうにそうかなってリードされながら1時間で次回のこと(最終回らしい……)も匂わせて、まとめちゃうんだからすごい。
この回で大事なのは、路上生活者に石を投げた若者ではなく、それに反撃した路上生活者の方を裁こうとしているところ。そして、若者はグループで石を投げていたのに、なぜかそのうちの一人が証言台に立ったこと(この人が反撃を受けた当事者ということになっている)。
要は、石を投げた後、若者グループ内でトラブルになって、一人をスパナで殴ってしまって、やばいやばいってなって、路上生活者に殴られたことにしようって内々で片づけようとしていたという話でした。人に石を投げたという罪を集団として引き受けつつ、より強い反撃をグループの一人が受けたんですという話(オオゴト)にすることで被害者の側に立ち、裁判にした、というのが、今回の話だった。
次の日のお弁当を作りながらだったからテレビに張り付いていたわけではないけど、グループの同調圧力に負けて、証言台で嘘をつく若者の演技も、それを一生懸命諭そうとする路上生活者(板尾さんでした)の演技もよかったな。泣いてしまいました。
で、なんだっけ。
2.説明されない暴力
ところで、浦島太郎に出てくる子どもたちってなんで亀いじめてんの。
なんで上履き片っぽないの。(あとで昇降口の溝から見つかった)
教科書ノリで貼られて開けないんだけど。(後日全校集会になった。そういうことじゃないんだよなあ)
自分がいじめられていた時のことを振り返ってみても、学校側のオチのつけ方って「(とりあえず全員集めて)こういうことがありました。よくないことなのでやめましょう」なんだよね。
誰から向けられた悪意なのか、何を根拠にふるわれている暴力なのかがわからないから怖いし傷ついているのに、当事者を排除して、集団の中で起きた一般的な問題にしてしまう。そういう問題解決方法がよろしいということにされてしまっている。学校だけじゃない。あらゆる集団で。
イチケイのカラスが描いた今回の事件も、そういうのが背景にあるんじゃないのかな。これはただの感想です。
脱線しましたね。
3.私もその一人であった
さて、今回の「赤松啓介を読む」である。
赤松は『性・差別・民俗』[赤松 2017]のなかで、人に石を投げていじめる話について書いている。その人は女性で、海水浴場近くの浜に掘っ立て小屋を建てて暮らしており、夏はいつも半裸で、周りから狂人と言われていた。
近所の悪童たちは「追っかけられるのが怖いし、面白かった」[赤松 2017:171]という理由で、彼女に石を投げたり、ここで紹介するにはちょっとはばかられるような……、とにかく、いじめていた。
赤松はここで、わたしもその悪童の一人だったと告白するのである。
ひどい、なんてやつだ、と思うだろうか。確かに、赤松は別の本で、暴走族にハネとばされるのは好きではないが、暴走族を生むような社会に対しては責任を感じる、みたいなことを書いている[赤松 2005:116]。とんだダブルスタンダードである。
だけど赤松がダブスタかましていることよりも重要だと思うのは、もっと客観的に、「日本の民俗における、狂人をいじめる子どもの話」として紹介しなかった、という点だと思う。
赤松は一人の当事者として、その女性にまつわる噂話を地域の人から聞き取り、まとめている。
今回はこの、赤松を含めた悪童のグループと、イチケイのカラスの若者グループを対比させながら、集団と個の関係について考えてみたい。
4.集団のなかの個(当事者)
集団が個を覆い隠してしまうことも、集団の中で個を主張することも、同じ集団と個の関係のなかで起こることだけれど、この二つは全然違う。イチケイのカラスで、自分たちの暴力を路上生活者に擦り付けようとした若者グループが前者なら、赤松の回想は後者と言うことになる。
この後者って何だろうか。
もちろん、集団の中にいる以上、完全に個であることは難しい。サークル内の秘密の恋愛なんてだいたいみんな知っているし、ツイッターに書いてる悪口もだいたい読まれてるし、何考えてるか顔に出やすいやつなんか、夕飯が不本意ながら昨日の残りのカレーであることもばれている。昔はやんちゃしててさ~といいつつ実はパシリでした。ばれてるばれてる。
さて、これは自分だけのものだと信じて疑わないものがあるとして、それが今の自分を支えているのだとしたら、逆に秘密にしておく方が難しい。これ、バレるとかバレないとかって話でもなくって、わたしたちって、なんだかんだ集団の圧力によって平均化されることよりも、集団の中で自分について説明することの方が多くない?
モーリス・ブランショは、人は本来秘密がばれることを望んでいる(かなり意訳)みたいなことをいっている[ブランショ 1997:48]。自分だけのものと信じて疑わなかったものが、集団にさらされることで、人は集団の中に居場所を獲得する。
この意味でもまた、最も個人的なものは、一人の人間に固有な秘密としてとっておかれることはなかった。それは個人の限界を破って分かち合われることを要請していた、というよりむしろ、分かち合いそのものとしておのれを宣明していたからである。この分かち合いはそのまま共同体へと反転するが、それによって共同体の中にさらされ、そこで理論化され、定義づけの可能な真理あるいは対象となることもある――そしてそれが分かち合いというものの危うさでもある[ブランショ 1997:48]
ブランショ、モーリス 1997 『明かしえぬ共同体』西谷修訳、筑摩書房。
5.必要な告白
客観的に対象の集団を捉えて現象を描くのではなく、自分が集団の中の当事者だったことを告白してはじめて書けるものがある。赤松は地域の人から、かつて自分がいじめていた女性のことを次のように聞き取った。
赤松先生があの「シーやん」を知って居られるとは驚いています。ほんとに変わった女の人でした。気違ひではないようでした。「狂人」という人もありましたが、茶びんを提げて学校の門前を通って、水汲みにきていました。私が何年生であったか、「シーやん」が死んでいるのを見に行き、かわいそうに思って見てきました。こんなこと今に思い出していただき、さぞさぞ「シーやん」も草葉の陰から喜んでいることと存じます。ありがとう、ありがとう。ほんとに懐かしい思い出でございます。[赤松 2017:172]
赤松啓介 2017 『性・差別・民俗』河出書房。
赤松の告白の上に成り立っているインタビューだと思う。また、話者は自身と「シーやん」との関係をも語ろうとする。幼き赤松の思い出が、その告白が、そのことを可能にしているのだと思う。
人に石投げたら10:0で石投げた方が悪いけどな。
参照文献
赤松啓介 2005 『差別の民俗学』筑摩書房。
同 上 2017 『性・差別・民俗』河出書房。
ブランショ、モーリス 1997 『明かしえぬ共同体』西谷修訳、筑摩書房。
参考映像
フジテレビ 2021年6月7日放送 「イチケイのカラス」第10話(https://www.fujitv.co.jp/ichikei/story/story10.html )
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