ダサく生きる――悔しくない暮らし方、働き方のための愚痴(入山 頌)

10月 20, 2020

0.競争社会――走らされているのに、もはや勝ち負けじゃなくなっている  

 働きたくない。朝起きたくない。ゴロゴロしたい。マンガ読みたい。ゲームしたい。晴れた日は平日だろうがなんだろうが川とか空とかみたい。浴びるようにお酒飲みたい。でも周りをみるとみんな働いているし、朝起きてるし、平日も土日もキーボードをカタカタカタッタァーン!ってしてるし、窓みながらネ◯カフ◯からドゥルドゥル出てくる汁飲んで一日の達成感に浸り、持ち前の社交性とやらを発揮してビジネスライクなイチャイチャライフしてて、お酒はたしなむ程度で、会話を楽しみながらニコニコやってて、この前記憶がなくなるまで飲んじゃってさーなんてへらへら言おうものならヒンシュクを買い、そういう人とはちょっと……。なんていわれちゃったりしちゃったりなんかして。うける。別に、一人で飲むし。

 みんなが走っているのに、一人だけ休んでたり、歩いていると、なんか自分が悪いことをしているみたいな気分になる、この負い目を、政治学者の栗原康さんは「生の負債」って呼んでたな[栗原 2015]。こういうの、同調圧力っていう人もいるけど、そんなもんじゃないと思う。もっとなんかやばいやつなんじゃないだろうか。同調圧力も充分やばいけど。

 要は、輝かしい未来を描いて、みなさん一斉に走りだしてください、ゴールは人それぞれです。足が遅い人がいてもいいんですよー、ただ、疲れて立ち止まった人を助けるほど世のなか甘くないですよー、と言われて久しいわけだ。走りたくて走っているわけじゃない人がいて、走るのがめちゃくちゃ好きな人もいて、それで同じゲームで勝負してる。

 ぼくが生まれたころ、世の中ではゆとり教育なんていわれてて、子どもにしてみればきつめの教育をそもそも知らないからなにがゆとりかもわからないまま義務教育を通過するしかなかった。「人それぞれ」みたいな価値観がだいぶ浸透していて、なにが勝ちでなにが負けかよくわかんない感じになっていたような気がする。それで、夢も、走るペースも自由でいいけど自己責任みたいな、で、夢とかよくわかんないし走りたくないっていうか走れないですっていう人にすごい冷たい社会で。

 教育学者の本田由紀さんは、そういうのをハイパー・メリトクラシーって必殺技みたいな名前で呼んでた[本田 2005]。で、実際、ゆとり世代はこの必殺技をくらってしまっているがゆえに生きづらかったんだなあ。たしか本田さんによると、ゆとり教育を受けていたかつての子どもたちがこの必殺技を受ける前は、モーレツに受験頑張って「いい大学」に入って、「いい会社」でモーレツに働くことが正解ってわかりやすい人生像が、競争が得意な人にも苦手な人にも共有されていたんだけど、いやいや、人生の価値ってそれだけじゃないでしょ、人がそれぞれ自分の幸せをみつけていくことが最近のトレンドなんですよ、って、広告だの映画だのドラマだの歌だので「そういうもん」に変わってきて、コンクリートからタンポポが生えていることにもいちいち価値がついて(タンポポだって生えている場所をいちいちほめられたくないと思う。朝とか眠いと思うし、タンポポによってはうるせえなあって思ってると思う)、よくわかんなくなっちゃった。で、よくわかんなくなっちゃったことに、だれも責任が取れなくなっちゃった。

 話が戻るんだけど、こういうの、どうすればいいんだろう。愚痴りながら、考えたいなあ。

 例えば、お笑いコンビ、オードリーのツッコミで知られる若林正恭さんは、2016年の芥川賞受賞作品『コンビニ人間』(村田紗耶香さん作)を読んだ感想をこんな風に書いてた。

「ぼくが読んできたこれまでの小説の中では、コンビニで働く主人公は『そこから抜け出そうともがく』存在だった。だが、ついにコンビニで働くことで救われる主人公が現れてしまった。

 その生き方は、新自由主義に対してのサバイバル方法のひとつに映った。

 日本はまもなく『勝ち組』と言われる上位数%に食い込もうとすることが『ダサい』ことになってしまうのではないだろうか。いや、もしかしたらもうそうなりつつあるのかもしれない」[若林 2017:44]

若林正恭,2017,『表参道の野良犬とカバーニャ要塞の野良犬』,角川書店。

 「人それぞれ」の時代に競争させられている人は、勝ち負けじゃなくてダサいかダサくないかで競争してるのか! 納得かもしれない。

「ぼくの違和感。胸に秘めざるを得ない疑いの念。(…)『スペックが高い』という言葉が人間に使われること。『超富裕層』『格差』『不寛容社会』。勝っても負けても居心地が悪い。いつでもどこでも白々しい。持ち上げてくるくせに、どこかで足を踏みはずのを待っていそうな目。祝福しているようで、おもしろくなさげな目。笑っているようで、目が舌打ちしている」[若林 2017:30]

若林正恭,2017,『表参道の野良犬とカバーニャ要塞の野良犬』,角川書店。

 でも、ゴールは人それぞれですよって言われて困ってる人がいて、そっか、ダサくなければいいんだ! って解決するわけでもないよね。

 実際は、ダサさを巡って足の引っ張り合いが起きてる。いわゆるマウント合戦みたいなやつ。そして、経済的格差も、「人それぞれ」になってしまって、周りに合わせて走り続けるか、孤立するか、不断に択一を迫られている。

 だから結局、どれだけ社会の、上辺の、価値観が変わったところで、ダサくないように生きることを強いられているだけで(そんなことクソどうでもいい人もいるのに)、価値観が変わることってなんの解決にもならない。

 なんていうか、好きにやっていいよ、自由でいてね、そんな正体不明の呼びかけがあって、それがぼくたちを苦しめているようだ。これって、好きなものとかないとダサいってことになっちゃって、自由が強制されてるっていうわけわかんない状態(ダブル・バインド)が普通になっちゃってるってこと。イギリスの批評家、マーク・フィッシャー曰く、こんな感じ。

「上からの意思決定や中央集権的な管理の終焉を告げる新自由主義的なレトリックが顕著になったにもかかわらず、『目的と目標』『結果主義』『ミッション・ステートメント』をめぐる新しいタイプの官僚主義が浸透してきているのだ。(…)

 すでに指摘したように、「賢く働く」ことと管理・規制の強化にはなんら矛盾するものはない。両者はむしろ、管理社会における労働の表裏一体を指している」[フィッシャー 2018:104-105]

フィッシャー、マーク,2018,『資本主義リアリズム』,ブロイ、セバスチャン・河南瑠璃訳,堀之内出版。

 「人それぞれ」ですよ、なんていいながら、結局、生産と消費を効率よく管理されてる(なにが欲しいか、なにがしたいかって感情をうまいこと利用して働かされてる)だけなんだなあ。

 だから、こんな世の中、つらくて悔しくてしょうがないけど、どうすればいいかって解決方法なんかどうせ「人それぞれ」。でも、ちょっとでも、ささやかに、こっそりと、でも、大胆に、してやったりで抵抗できたら……。

 その抵抗のために、こんなのがあるんだなって本を二冊読んでみたので、もうちょっとだけ……。

1.暮らし方(ニート)

 一冊目はphaさんの『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』。とにかくやりたくないことははっきりしていて、やりたいことはフワフワしている感じ。これがすごくいい。

「みんなが当たり前にできているような、毎日決まった時間に起きるとか、他人と長時間会話するとか、大勢の人が集まっている場で適切に振る舞うとか、そういうことが自分はできないのはなぜなんだろう。努力が足りないとか、コツを知らないとかそういうことなのだろうか。十代、二十代の頃はずっとそんなことに悩んでいて試行錯誤を繰り返していた。(…)

 世間で模範的とされている生き方、例えば『ちゃんと学校に行ってちゃんと就職して真面目に働いて結婚して子供を作って育てる』みたいなのに違和感を覚えない人は別にそれでいいと思う。人はそれぞれ幸せになれる場所が違うし、そのルートで幸せに生きられる人はそこで生きたらいい。皮肉などではなく素直にそう思う。

 けれど、そういった世間で模範的とされている生き方にどうしても馴染めないし適応できなくて、『それって自分が悪いのかな』とか『自分の努力が足りないのかな』とか悩んでいる人に対しては、『別にどんな生き方でもなんとか生きられたらそれでいいんじゃないの。自殺したり人を殺したりしなきゃ』と言ってあげたい。それはその人が悪いのではなくその人と環境との相性が悪いだけだからだ」[pha 2012:132-133]。

pha,2012,『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』,技術評論社。

 このphaさんがたどりついたのが、シェアハウスで暮らすということ。そして、持つこととか、つながることについて、なるべく執着しないということだった。

「交流がないと寂しいんだけどずっと交流しっ放しで喋りっ放しというのも苦手で、そんなに喋らないけどなんとなく適度な距離に人がいる、という昔いた寮のような雰囲気がいいんだけど、そういうちょうどいい場所があまりなくて、それならば自分で作ろうと思い立ったのが、『パソコンとかインターネットとかが好きな人が集まってもくもくとインターネットをする』というコンセプトの『ギークハウス』というシェアハウスだ」[pha 2012:113-114]

pha,2012,『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』,技術評論社。

 でも、phaさんがいう「適度な距離」って難しい。同じ時間とか空間を共有する以上、居心地の良さ以上に、ちょっとやだ、なんかやだってことは避けられないだろうし。

「人とのつながりを維持していればいろいろなんとかなるかもしれないということを考えて、インターネット上で知り合いを増やしたりシェアハウスを作ったりしているというのはある。

 多くの人は老後に備えるために、結婚したり子供を作ったりして家族のつながりを作っているのかもしれない。で、僕はそれを友達や知り合いやシェアハウスでやっているのかもしれない。でも友達は家族ほど強い結びつきじゃないし、自分が入院したときにネットの知り合いやシェアハウスの住人が助けてくれるかどうかは分からない。けれど僕はあまり家族を作る気にならないから仕方ない。家族って、なんか閉じた感じがして好きじゃない。

 僕は血縁にこだわる意識がよく分かんなくて、家族や親戚よりも友達のほうが大事だと思っている。家族や親戚は自分で選んだわけじゃないから気が合わなかったり好きじゃない人間でもつながりを切ることができないけれど、友達だったら誰と付き合うかを選ぶことができる」[pha 2012:275]。

pha,2012,『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』,技術評論社。

 うーん、家族と友達じゃ距離感ってたしかに全然違う。選べない関係(親子)に対して選べる関係(友達)っていうのも、わかる。でも、友達付き合いにも気遣いはあるし、その延長で、そんなに仲良くしたくない人と一緒にいる時間があったり、そういう、同調圧力があったり、学校って人によってはそういう場所だし、学校じゃなくても……。

 選べるとか選べないとかで理解すると、コミュ力とかそういうマウント合戦になって、結局、嫌々競争せざるを得ないような気もする。関係をつなげたい気持ちと、つなげたくない気持ちを、不器用にでも、生きていく中で、どっちも、考えながら暮らしていくことはできないだろうか。

2.働き方(ナリワイ)

 二冊目は、伊藤洋志さんの『ナリワイをつくる――人生を盗まれない働き方』。なんか、コミュ力とかそういうんじゃなくて、伊藤さんは、めんどくささみたいなものも含めて愛おしく暮らしに役立てていく働き方として、ナリワイって言葉を繰り返し使っている。

「『困ったら食わせてやる』という友人を持つには、自分も『こいつが困ったら何とかしてやろう』と思える友人を持つことが必要だ。それには、なにか活動を通して『仲間』を増やさないといけない。単なる社交の場ではそのような仲間は育たない。パーティに出まくって知り合いが増えても、仲間は増えない。そういう意味でも、ナリワイは仲間をつくるのにも向いている。ナリワイになりやすいのは、お客さんが自分自身で家を建てるのを手助けをする仕事など、ワークショップ的要素の強いものである。お客さんをサービスに依存させるのではなくて、逆に生活自給力をつけてもらうのだから、仲間をつくるのに向いているのだ」[伊藤 2012:111]

伊藤洋志,2012,『ナリワイをつくる――人生を盗まれない働き方』,筑摩書房。

 あ、ここでは友達じゃなくて仲間って言葉が出てくるね。

 友達と仲間、似ているようで違う? どう違うのか……。

3.ダサければよし――脱自己責任のために

 選べる、選べないは「人それぞれ」。「人それぞれ」は無責任に責任を押し付けてくる。そうじゃなくて、選んだわけじゃないけど今こうなってる、そういう自分の状況を引き受けながら生きていくことで、変わっていけることもあるのかな。

 器用じゃなくても、カッコ悪くても、周りの空気についていけなくても、同級生が結婚しても、そういうことをいちいち価値があるとかないとか、意味があるとかないとか、そういうふうにするんじゃなくて、もっと素朴にならないかな。価値とか意味とかじゃなくて、買い物ができて、おいしいものがあって、花があって、寝て、起きて、音楽があって、今があればいいなあ。

■参照文献

伊藤洋志,2012,『ナリワイをつくる――人生を盗まれない働き方』,筑摩書房。

栗原康,2015,『働かないで、たらふくたべたい――「生の負債」からの解放宣言』,合同会社タバブックス。

本田由紀,2005,『多元化する能力と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化の中で』,NTT出版。

フィッシャー、マーク,2018,『資本主義リアリズム』,ブロイ、セバスチャン・河南瑠璃訳,堀之内出版。

若林正恭,2017,『表参道の野良犬とカバーニャ要塞の野良犬』,角川書店。

Pha,2012,『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』,技術評論社。

その他

Posted by ily